昨年11月に行った日本の調査チームが調べた結果を分析したところ、ほぼ間違いなく2つの隠し部屋があると判明
エジプトのルクソールにある「王家の谷」に有名な古代エジプトの王ツタンカーメンの墓がありますが、昨年の調査の結果を分析したエジプト考古相は隠し部屋が2つあることを発表しました。
隠し部屋には有機物と金属の反応があり、ツタンカーメンの義母にあたる「伝説の美女」ネフェルティティのミイラが底に横たわっているのではないかとも考えられています。
これはイギリスの考古学者ニコラス・リーブス氏が立てた仮説で、もし実際にその通りであったら「世紀の大発見」(エジプト考古相:ダマディ氏)になるでしょうが、この調査チームは日本の渡辺広勝さんがレーダーの調査を行っています。
なぜツタンカーメンはこんなに有名?
しかし、どうして数多くいるファラオ(エジプトの王)の中でもこれほどツタンカーメンは有名なのでしょうか。主な理由はいくつかありそうです。
- 盗掘を免れたおかげで副葬品が多く発見された
- 「ツタンカーメンの呪い」が世界中に広まった
- 18歳という若さでこの世を去った
- 暗殺されたという説があった
多くの副葬品
この記事の一番始めにある「黄金のマスク」など、1922年にハワード・カーターたちが発見した副葬品はときのファラオがどれだけの権力を持っていたかを如実に語るものでした。
その数はおよそ2000点にも上ります(現在はエジプト考古学博物館に所蔵)。これだけの埋葬品が見つかった例はなく、ツタンカーメンを著名にした要因としてはとても大きいでしょう。
「ツタンカーメンの呪い」
一般の人たちの心をとらえたのはやはり「ツタンカーメンの呪い」ではないでしょうか。発掘直後にカーターの飼っていたカナリア(エジプトでは幸運の鳥とされる)がコブラに食べられてしまったことに始まり、スポンサーであるカーナボン卿が翌年に原因不明で死去。
それから考古学者のアーサー・メイス、アラン・ガーディナー、ジェイムズ・ブレステッド、ハーバート・ウィンロック、アーサー・キャレンダー、リチャード・ベセルと相次いで亡くなったことから発掘に立ち会ったものへ「ツタンカーメンの呪い」がかけられたのだとまことしやかにささやかれたのです。
実際にはねつ造されたり誇張された部分もあり、オカルト的な呪いは現在では疑問符がついています。
若すぎる死
父親のアメンホテプ4世が亡くなり、ツタンカーメンが即位したのはわずか9歳のとき。そして18歳のときに命を落とします。「少年王」とも呼ばれるツタンカーメンの悲運に思いを寄せずにはいられません。
そんな境遇が故にツタンカーメンという人物の知名度がまた上がったのかもしれません。
暗殺説
1960年代に行われたツタンカーメンのミイラのX線撮影を分析したとき、後頭部に血の塊のようなものが発見されたことから、彼は何者かによって撲殺されたのではないかという説が広まりました。
しかし現在ではこの説は否定されています。血の塊のように見えたのはミイラを作成するときに用いた樹脂によるものだと判明しています。死因については骨折が原因の感染症やマラリアではないかと考えられています。
ツタンカーメンの呪いも、こうした暗殺説や若くして亡くなったことがより信憑性を加えることになったのかもしれません。
ネフェルティティの発見がどうして「世紀の大発見」なのか
そんなツタンカーメンの義母にあたるのがネフェルティティです。エジプト王朝の美女というとクレオパトラが真っ先に出てきますが、アメンホテプ4世の第1王妃であったネフェルティティはその名が「美しい者が訪れた」という意味の通り、「伝説の美女」とされています。
ツタンカーメンの義母であり、伝説の美女であったというだけでなく、古代エジプトの宗教改革の狭間に生きた人物であることも歴史的に大きな意味があります。
ネフェルティティの胸像From Wikimedia Commons |
彼女が嫁いだアメンホテプ4世は自らを「アクエンアテン」と名乗っています。これはそれまで歴代の王は「アメン」という神の化身であるとしてきたのに対し、アクエンアテンは「アテン」という神を民衆の信仰対象とし、自らをそこになぞらえた「宗教改革」だったのでした。
結局、「アメン神の生ける似姿」という意味の名のツタンカーメンの代になったときにはふたたびアメン神信仰に戻っているのですが、アクエンアテンとツタンカーメンの間には実はスメンクカーラー、トゥトアンクアテンといった人物が王についています。
そのスメンクカーラーがネフェルティティだったのではないかという説があり、この時代の王位継承の事実や宗教改革の歴史について新たなことがわかるかもしれないという期待が高まっています。今後の再調査がどうなるか気になるところです。
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