モハメド・アリ氏が74歳で死去。呼吸器系の病気で入院したその日に

モハメド・アリ

葬儀は生まれ故郷のルイビルで



3日にアメリカで3度のヘビー級チャンピオンに輝いたモハメド・アリ氏(74)が、アリゾナ州フェニックスの病院で亡くなりました。死因は敗血症性ショックでした。葬儀はアリ氏の生まれ故郷であるケンタッキー州のルイビルで営まれる予定です。










2日に呼吸器系の病気のために入院していましたが、担当医によると入院直後は安定した容体だったとのことです。



アリ氏が引退したのは彼にとって61試合目となるトレバ―・バービック氏との試合に負けた後でしたが、すでに1970年代から脳神経の損傷があったとされ、引退直後からパーキンソン病の治療を受け始めていました。




カシアス・クレイとして生まれ、12歳でボクシングのリングに立つ




モハメド・アリ氏は1942年1月17日にケンタッキー州ルイビルで生れました。祖先は逃亡した奴隷だったと言われます。名前はカシアス・マーセラス・クレイ。カシアスは19世紀にいた奴隷廃止を主張した人物の名前からとっています。モハメド・アリはイスラム教に改宗してからの名前になります。




自転車を盗まれたクレイ少年はそのときに出会ったジョー・マーティンという警官に勧められてボクシングを始め、12歳で人生初のリングに立ちます。




ローマオリンピックで金メダルを獲得するも





アマチュアとしての成績は108戦100勝で、1960年にはこの年ローマで開催されたオリンピックで金メダルを獲得します。しかし、故郷のルイビルに帰ったときに、飲食店で黒人だからという理由で接客を断られたアリは金メダルを川に投げ捨ててしまいました。







プロへ転向




オリンピックと同じにアリはプロ契約を結び、10月29日にタニー・ハンセイカーとのプロデビュー戦が組まれ、この試合に勝利します。アリ持ち前の挑発的でウィットの利いた発言はまたたくまにマスコミの注目を集めました。



特に1964年2月25日のソニー・リストン戦では試合前に自分がどのように勝つかを表現した言葉は今でも世界的に有名になっています。




「蝶のように舞、蜂のように刺す」






22歳だったアリはマイアミで開かれたこの試合でリストンを宣言通りに破り、ヘビー級の初タイトルを獲得します。






翌年に再びリストンとの試合が行われますが、このときには第1ラウンドのわずか数分でアリはリストンをノックアウト。タイトル防衛に成功しています。




公民権運動とイスラム教への改宗




名実ともにナンバーワンのボクサーとなったアリでしたが、時代の波が彼を飲み込んでいきます。このころアメリカでは黒人差別の撤廃を求める公民権運動が盛んになり、差別に憤って金メダルを川に投げ捨てた過去のあるアリも黒人指導者との交流を深めていきます。



マーティン・ルーサー・キング牧師との写真





特にその中でもマルコムXの影響を強く受け、1967年にイスラム教に改宗しカシアス・クレイからモハメド・アリと名も改めたのでした。




徴兵を拒否し王座はく奪




ベトナム戦争が始まると、1967年にアリのもとにも徴兵の召集がかかるのですが、宗教を理由にこれを拒否します。国民から強い非難を受けただけではなく、「戦うべき敵はベトナムの共産主義者じゃなく白人だ」と公言するなど、公民権運動に関わったことも加えてヘビー級の王座ははく奪され1万ドルの罰金と禁固五年を言い渡されます。






この決定が覆されるには1971年の最高裁の判決を待たなければなりませんでした。




復帰後、フレイジャーやフォアマンと数度の対戦




ライセンスも取り戻したアリは最高裁の判決から数ヶ月後にジョー・フレイジャーとの試合に臨み、15ラウンドという死闘の末、満場一致で判定負けしたのでした。しかし、その後フレイジャーとの2試合はアリが勝利しています。





アリのもう一人のライバルと言えば、ジョージ・フォアマン。全盛期が過ぎたのではないかとささやかれる中、アリは1974年にザイール共和国(現在のコンゴ民主共和国)でフォアマンと対戦。ロープにもたれながらフォアマンのパンチをガードして打ち込ませて疲れるのを待つ「ロープ・ア・ドープ」戦術を使い、8ラウンド目にKOを奪ったのでした。「キンサシャの奇跡」と呼ばれるこの試合で再びアリは王座に返り咲いたのでした。







1978年2月15日にレオン・スピンクスに敗れてベルトを失いますが、それから7ヶ月後に挑戦者として挑み、3度目の王座を獲得しています。




1981年に引退するまでの戦績は56勝(37KO)5敗。身長は6フィート3インチ(190cm)、体重は215ポンド(97.5kg)、リーチは198cmという体格でした。





リングを離れ、人道支援や慈善事業に





引退後は国連のピース・メッセンジャーとして飢餓や貧困への取り組みを支援するなど慈善事業などを行いました。



1996年のアトランタオリンピックでは最後の聖火ランナーとして登場して人々を驚かせるとともに感動を与える役割を果たし、2012年のロンドンオリンピックの開会式にも参加しています。





プライベートでは4度の結婚をし、9人の子供がいました。3番目の妻との間に生まれたレイラ氏は父と同じプロボクサーでWIBAスーパーミドル級の初代チャンピオンになっています。




スポーツ・イラストレイテッド誌に「20世紀最高のスポーツマン」に選ばれるなど、カリスマ的な存在のモハメド・アリ氏でした。










参照

http://www.foxnews.com/sports/2016/06/04/muhammad-ali-boxing-legend-cultural-icon-dies-at-74.html
http://abcnews.go.com/US/muhammad-ali-dies-greatest-boxer-dead-74/story?id=18391211
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060400177&g=spo
http://www.asahi.com/articles/ASJ643CTKJ64UHBI00M.html





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